シナイの王国

演劇部顧問ナカムラのあれこれ

島根に行きます

ええ、わたしも島根に参ります。
いよいよ夏休み、大きな声では言えないが、
あまり仕事も回ってこないし、夏休みは取る、リフレッシュ休暇は取る、
土日勤務の振り替えも取って、全国大会も行きますが、旅行にも行って
だらだらと過ごそうかと思います。

ただ、県大会の脚本は少しも進まず、これは脚本の書き方などまとめたせいかと
思いますが、承知の上だったので仕方ない。

演劇を構成する脚本・演出・演技・視覚効果・聴覚効果などいずれにも言えることですが、
よりたくさんの人に伝えるための早さ・わかりやすさを追求すると、
一種の様式に近づくわけですが、
それはある意味、こう動けばこういう意味、こう言えばこういうこと、といった、
記号的なものにならざるを得ません。漫画でいうところの困ったときの汗、たらーっというの。

一方で、リアル系でも前衛系でも同じことですが、自分にしか伝えられない独特の
劇であろうとすると、脚本も演出も演技も、個性的であろうとすると、観客に慣れてもらったり、
洞察してもらったりする必要が出てきます。

上の文章はしりあがり寿の『表現したい人のためのマンガ入門』の「画風について」という
章を演劇に読み替えて書いています。

リアル系でも前衛系でも同じこと、その時代に支配的なある様式以外のものは、
受け入れられるまで時間がかかる。
それは高校演劇なんていう狭い世界でもそうです。
高校演劇にプロの審査員を呼ぶのは意味があります。ときどき来てもらって、
みんな、実はこういうのをかっこいい、と言うんだぜ!と言ってもらう必要があるからです。
ときどきとんちんかんなことを言う人がくるのは、それはもう運が悪かった、
必要悪だ、とでも思うしかない。

演劇などというわりと何やってもいいはずのジャンルでも、
あるいは実験性というのが、その要素の一つに入っているはずのジャンルでも、
頭の固いこと言われると困ったなあ、と、ねえ、
『季刊 高校演劇』の読後感、楽しみにしていたのに、
自分が悪いんですけどね、ちょっとがっかり。
答えがない、中身がない、ってそれは、間違ってない、その通りなんですけどね。