シナイの王国

演劇部顧問ナカムラのあれこれ

高校演劇について

演劇のように、内容にしても享受の仕方にしても、懐が深いというか器が大きいというか様々雑多なものを抱え込んでいるジャンルに対して、ひとつの評価軸(レベルが高い-低いなど)のみで論じるようなことをすると、自分の頭の悪さの証左のようになってしまう。

高校演劇なのだから、キャリア1、2年の俳優で演じることになる。これはいくら高校演劇も演劇だといっても、それはそれで当然なのだが、特殊でないわけはない。ただ、作っている方はもちろん誰の鑑賞にも堪えることを心がけている。こういうじじょうだから割り引いてみてくれ、とは思わない。この年齢ということを含め、この環境だからこそ表現できるものがあるのだ。訳の分からない「うまさ」などというものを軽々と越える場合もある。

宮沢章夫が松江の全国大会の審査をした感想をこう述べている。
「オリジナルの戯曲を上演する学校は、主に高校生の日常が描かれる。するとどうしたって世界は狭くなりがちだし、あるいは、『青春』『旅』『わかれ』『再会』『友情』『恋愛』といった話が主流で、それ、ふだんの俺だったらかなり否定的になるだろうが、なぜか許せたのは、それは彼らの『特権性』だと思った。」

この「特権性」は「魅力」でもある。俳優がそのキャリアも、能力も、持って生まれたルックスや、華なども、おおいに利用して芝居するように、高校生としての存在を生かして芝居をするのが、大人の鑑賞に堪えるものを作る方法の有力なひとつである、というのがあたいの、今のところの結論だ。

ただ宮沢章夫はこうも言っている。
「たしかに、高校演劇が上演されるのが大きな劇場ということもあって、おそらくその会場で声が通るということを意識しているのだろう。声はすごくはりがちだ。それと台詞をしっかり審査員に届けなければいけないと意識しているのか、独特の発声、台詞回しが一部の女子高生に特徴として感じた」
ああ、大劇場!形式が存在の仕方を規定する。