シナイの王国

演劇部顧問ナカムラのあれこれ

構造だもんで

『構造と力』が出版されたのが1983年。ちょうど大学生だった。専攻は国文学だが、根がミーハーなもんで構造主義だの言語論的転換だの、分からないながらもかじっていた。ロラン・バルトなど訳者に縁があったのでそのあたりから入っていった。
そのロラン・バルトの言葉で今も忘れがたいのがあって、「ファシズムとは何かを言わせまいとする力ではなく、何かを言わせてしまう力である」というものだ。あたいたちは自分の意志で自由に物事を論じ、発言しているようで、実は制度のもとで思考しているのだ、という考え方だ。
内田樹からの引用だが、「人間は自由に語っていると信じているときに常套句を語り、常套句を語っているつもりのときに(しばしば)前代未聞の言を語る」教員ならだれでも経験があると思うが、何をしてもおれの勝手だ!おれの自由だ!という主張をなんと紋切り型の言葉で語ることか。十年一日のごとく変わらない。
自由に言いたいことを言って何が悪い、って言いたいことを言うときにもうすでに、言いたいことを言ってます的な語法に取り込まれ不自由になっているのだ、ということを自覚してもらいたいということです。大会の掲示板やら劇評やら「辛口」と名乗る方が紋切り型。もしかすると自分は何かに言わされているのではないかという不安などどこにもないようだ。
「すぐれた批評は対話的である」のだ。批評は生成的であるべき。

脚本の言葉は?だれかに言わされているのか?よくわからないが、一つ考えていることがある。常套句だけで書きたいと思っているがどこか色気が出てしまい、何か凝った表現をしてしまう。そういう部分が一番陳腐だ。いやあたいのことです。反省します。